自分で意味を持つ

子供たちにとって夏休み最後の日曜日。

選挙結果で賑やかなテレビを消して、家でのお手伝いは何故やるのか、という事で子供たちと話をしました。

子供でも大人でも、誰しも人から言われてやる仕事は嫌なものです。

しかし同じ仕事内容なのに、人によって進んでやる人と嫌々やる人とで別れます。

また、同じキツイ仕事でも、達成感にあふれる人と、結局、文句がでる人とでも別れます。

何故なのでしょう。

イチロー選手は自分の仕事に対して以下のような言葉を残しています。

打ったボールの伸びが詰まってしまって、HRではなくヒットになったようなバッティングに対して、

『打つべくして打ったヒット。理由付けできるヒット。どうヒットを打ったかが説明できるヒットですよね。僕に言わせれば、詰まった打球ではなく、詰まらせた打球なんです。』

『僕を天才という人が居ますが、僕自身はそう思いません。毎日、血のにじむような練習を繰り返してきましたから、今の僕があると思っています。だから僕は天才ではありません。』

『自分が全く予想しない球が来た時に、どう対応するか。それが大事です。試合では打ちたい球は来ない。好きな球を待っていたのでは試合が終わってしまいます。』

一方、松井秀喜は

『「チームの勝利が僕にとって一番大切です。でも自分が打てなくても、誰かが打って勝ったんだからそれでいいと いう考えは間違っている。しかし、巨人打線は、いいメンバーが揃っているだけに、自分はダメでも他の選手が打ってくれるだろうという依存心が大きな落とし穴になるんです』

桑田真澄などは

『一年間だけではダメです。一生です。僕は一生のスケジュールを立てています。』

名言となった質問内容や意図は各々で違うでしょうが、名言を残す多くの人に共通している事があると思います。

自分の仕事(全般的にも具体的にも)に、自分で自分なりに『意味』を持っているのです。

しかもその意味は言い訳的であったり、愚痴的なもではありません。

多くの人が当たり前の事と思っているような事でさえも、私達が考える以上に前向きな意味(想い)を持っています。

さらに多くの人が無意識に行っているようなことや、偶然的に起こったことに対しても、何かしら意味や意図を持っています。

自分で自分なりの前向きな意味を持ったその時点で、その仕事が命令や義務的なものであったとしても、自ら行動し「自ら作り上げた仕事」となるのだと思います。

自ら作り上げた仕事だからこそ、仕事には自分なりの意味があり、誰よりも仕事そのものが自分で理解出来るのではないでしょうか。

そのような仕事は、既に嫌々やる仕事にはなりえません。

もし、嫌々やっている仕事があるとすれば、そこには自分なりの意味が不在のはずです。

やはり、自分で意味を探し出すことが不可欠なのだと思います。

弊社の行田物流センターの尾澤センター長は、「自分の仕事を誇れるか」と言ったことがあります。

これは、自分の仕事に誇れるような意味を自分の中に持っているか、とも言えるのかもしれません。

誇るとは決して自慢することではありません。

自分以外の何かにも貢献できる意味を、自分自身で持っているかということだと思います。

同じく当センターの古沢5Sリーダーは、「社員の挨拶は、ハードを越える」と言います。

最先端の最新の機器を装備したセンターよりも、結局は、気持ちの良い笑顔いっぱいの朗らかな挨拶ができる社員のいるセンターのほうが共感、感動できるという事だと思います。

素晴らしい最先端の機器類は信用は出来るが、優しく笑顔のある挨拶をする人や会社には、信用とさらに信頼も兼ね添えるということでしょう。

この言葉について詳しく聞いたわけではないので、あくまで私の捉えたニュアンスですが、物流業という生業の枠を超えて、物流業も接客業のうちと考えているからなのだろうと思います。

そこに物流業としての独自の意味をもっているのだと思います。

与えられた意味を純粋に刻み込み行動することはもちろん大切なことですが、更に崇高なものになるには、自分自身の手で意味を加えることが必要なのだと思います。

そう考えていくことで、たとえ周りから見たら単純作業で簡単に見られてしまう仕事であっても、とても崇高な仕事にと成りえるからなのだろうと思います。

「自分で意味を持つ」。

とても大切なことだと思います。

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