篠崎運送倉庫物語

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創業から現在に至るまで、社員の皆様と共に苦労や喜びを分かち合い多くの事を学ぶ事が出来ました。  夢に向かって働くという共通の信念を通して、社員の皆さんと共に弊社も大きく成長する事ができました。  弊社のこの成長物語を是非ご覧になり「みんなで分かち合う経営」の原点を知っていただきたいと思います。

創業の頃

創業の頃 時代は高度成長期の昭和44年、日本経済が飛躍的に成長を遂げ、サラリーマン家庭も海外旅行に行きはじめた時代に篠崎磯次郎(現取締役会長)は資本金四百万円で有限会社篠崎運送を設立。磯次郎三十一歳の時だった。わずかな資金と六名の社員、トラック七台でのスタートだった。磯次郎はトラックで日本全国に走った。毎日毎日、朝早くから夜遅くまで働いた。当時は現在のようにトラックターミナルはなく、またリフト台数も少なかった為、ほとんどが手積の作業であった。重いモノでは五十二kgもあるものもあった。作業は確かに苦しかったが、毎日が充実していた。
有限会社篠崎運送としての初めての仕事は水道パイプを東京の日本橋に配送する事だった。仕事自体は難しいものではなかった。だが、初めての仕事。ハンドルを持つ手は震えていた。頭には嫌な事ばかりが浮かぶ。「事故はしないだろうか。荷崩れは起こさないだろうか。」無事、商品を届けられた時、安堵のため息をついた。担当者の表情をジックリ見る余裕は無かったが、磯次郎の眼には担当者の笑顔が映っていた。
「仕事とは客の期待を絶対に裏切ってはいけない。裏切らない為にも絶対に借りを作ってはいけない。延着も借り。借りを作らなければ、人との出会いを大切にできる。」初めての仕事を通して磯次郎の中で、この想いは完成した。そしてこの想いは現在まで篠崎運送倉庫で脈々と引き継がれている。

総合物流企業へ

篠崎磯次郎 創業から約一年。運送業が軌道に乗りつつあったが、磯次郎は一人悩んでいた。これからの時代、ただモノを運ぶだけでいいのか…それだけで社員を、そしてお客様を満足させることができるのか…どうすれば運送に付加価値がつくのか。時間は過ぎていくばかりであった。悩んだ末、磯次郎はトラック協会を尋ねる。「特色のある運送会社を知っていたら教えて欲しい。」職員に会うたびに同じ質問を繰り返した。すると一人の職員から答えが漏れた。「大阪と神戸には倉庫部門を併設した運送会社がある。」ヒントが見つかった。大阪と神戸の会社を訪問し、多くの経営者に師事を仰いだ。訪問を繰り返す中で、磯次郎の中にもボンヤリと会社の姿が見えてきた。「そろそろ皆にこの事を伝えよう。」ボンヤリとしたイメージが輪郭を帯びてきた。次の日、磯次郎はイメージを書きとめた紙を役員に配り、こう続けた。「これから先は運送だけでは駄目だ。倉庫部門を併設して総合物流会社になる。」この言葉を聞いた役員達は困惑した。
次の日の夜、役員の一人である小川の家に磯次郎が専務の古沢、尾沢を連れて尋ねた。磯次郎はここでもこれから先の運送会社について語った。古沢はこれに答えた。「今、七〇〇坪の巨大な倉庫を築いても、スグに埋まるような荷主はいない。どう対策を練っていくのか?」続いて、尾沢も尋ねた。「社長の主旨は解かるが、資金はどうするのか?もし上手くいかなかったら」議論は続いた。いつの間にか時計は十一時を指していた。最後に磯次郎が言った。「金の事も仕事の事も心配しなくていい。俺は借りを作らない。俺を信じろ。俺について来い。」

絶望から復活へ

炎写真 第一倉庫の完成から十年目。目の前が真っ白になる出来事があった。それは絶望の二文字でしか表現できない事実であった。
昭和五十六年十月十九日午前〇時三分、磯次郎宅の電話が鳴った。第一倉庫の近所の方からの電話であった。電話の声は混乱しながら言った。「社長、第一倉庫が燃えています。」駆けつけた磯次郎はその場に崩れ落ちた。とにかく消火をしなければ…磯次郎は第一倉庫を建設した会社に連絡を入れた。「第一倉庫が火事だ。壁を壊さなければ、消火ができないので、スグに鳶に来てもらいたい。」しかし倉庫が燃えつくされるまで、建設会社からは誰も来なかった。これまで人の縁を大切にしてきた磯次郎には思いもよらないことだった。「裏切られた…」ただこの思いだけが磯次郎を包んだ。だが燃え尽きた倉庫を社員たちが必死にかき分けている姿があった。社員だけではない、事件を聞きつけてきてくれた人達もそこにはあったのだ。磯次郎もいつの間にか皆に混じって、焼けた倉庫をかき分けていた。ただ「ありがとう」と思いながら…
初めて磯次郎は借りを作ってしまった。借りを返さなければいけない。そして社員の不安を社長として振り払わなければならない。磯次郎は翌日の緊急役員会議で言った。「もう一回復活するから大丈夫。大安の日に燃えた会社は大丈夫。絶対つぶれない。つぶさない。ボーナスは今までどおり出す。」この言葉に社員達は生き返った。その日から三日三晩の作業で第一倉庫の消火と燃えた商品の処分を行った。社員たちの協力で急復興ができた。篠崎運送倉庫の絆がより深まった。磯次郎はただ社員達に「ありがとう」しか言えなかった。この借りを返し続けなければならない。その一心で、これまで以上に辣腕を振るい、篠崎運送倉庫は急成長を続けた。

未来へ

写真 順調に倉庫の拡大を行い、会社は順風満帆に成長していた。「期待に応えるためにも、借りを作らない。」この考えが浸透した結果だった。そして会社はこれからも成長し続けると思っていた。その矢先の出来事だった。磯次郎が倒れた。何とか一命は取りとめたものの、会社代表者を続けることが不可能な状態になった。代表は息子である晃市が継ぐことになった。晃市は悩んだ。どうやれば、会社を今までと同等以上に成長させることができるか。磯次郎であれば、どうやっていくか。答えは一つであった。「倉庫を中心としたトータル物流サービス」を行なっていくこと。その答えのもと、持ち前の交渉力、提案力を武器に晃市は人一倍働き、実績を積み上げていった。今では当たり前の提案型営業も磯次郎は創業当時からやっていたのだ。その背中を見続けた晃市にとっては営業のスタイルを変えていくことは容易かった。そして平成十四年四月、磯次郎より晃市に社長交代が行われた。新生篠崎運送倉庫がスタートした。晃市、三十四歳の時だった。今まで以上の顧客満足を得るために、営業と情報管理に力を入れていった。新たに営業部を発足し、コンピュータシステムも充実させた。全ては「人との出会いを大切にするため。期待にこたえるため、借りは作らない。」という創業当時から受け継がれている想いが晃市を動かしたのだ。

そして現在、順調に顧客満足を得、篠崎運送倉庫は成長し続けている。成長の一番の理由は組織変更やシステム導入ではない。「人」が成した結果なのだ。晃市は言う。「社員のレベルアップが、お客様へのサービス力強化に直結する。」人を大切にする。出会いを大切にする。この精神が今日の、そして未来の篠崎運送倉庫を支えていく。


さあ、次の物語を一緒に創ろう。